第9章 私と結婚して
橘結衣は身をひねってかわした。
格闘の経験がある。間髪入れず、掃き足で相手の足元をさらい、床へ叩きつける。動きは速く、容赦がない。
もう一人はそれを見て、慌てて宮本茜を下ろすなり突進してきた。振り下ろされる拳。
橘結衣は首を傾けてかわし、腕を掴むと、そのまま背負い投げ。
男は「ぐあっ」と情けない悲鳴を上げた。這うように起き上がったところを、橘結衣が胸元を押し返す。力は男に引けを取らない。押されるまま後退した男の背中が、ゴミ箱にぶつかった。
ドン、と鈍い音。
二人は勝ち目がないと悟ったのか、転げるように逃げていった。
橘結衣はスマホを取り出して通報し、宮本茜の傍へしゃがみ込む。頬を軽く叩いた。
「宮本茜。宮本茜、聞こえる?」
名前を呼ばれたからか、宮本茜はゆっくり瞼を持ち上げ、橘結衣を見上げた。
「大丈夫? どこか痛い?」
橘結衣が焦った声で尋ねると、宮本茜は紙みたいに真っ白な顔で、霧がかかったような目を揺らした。額には冷や汗がびっしり。
必死に口を開き、途切れ途切れに言う。
「薬……あいつら……私に、注射した……」
何を打たれたのか分からない。もし厄介なものだったら——。
「病院行く。すぐ!」
——
京清第一病院。
橘結衣は胸の奥のざわつきを押し殺し、向かいに座る宮本景太を盗み見た。
漆黒のスーツ。シャツのボタンは襟元まできっちり留められ、冷ややかな横顔には、否応なく人を従わせるような圧がある。
視線に気づいた宮本景太が顔を上げた。
夜みたいに深い黒の瞳。底の見えない危うさに、橘結衣は獣に睨まれた獲物みたいに背中が粟立つ。
正面から目を合わせられず、視線を落とす。
「えっと……宮本社長。宮本茜さんも大丈夫そうですし、私、もう帰ってもいいですか?」
怖すぎる。
前の人生でも何度か顔を合わせたことはある。それでも、この人の空気には慣れない。
宮本景太は黙って橘結衣を見つめ続けた。
橘結衣「……」
横の江川陸斗が口を挟む。
「橘さん、少々お待ちください。捜査の結果、今回の誘拐に関与していないと確認でき次第、こちらからお帰りいただけますので」
今回の宮本茜の件は、明らかに計画的な誘拐だった。
橘結衣が警察に通報したことで、二人の容疑者はすでに逮捕された。
現時点では、これは博創不動産の高原社長が企てた誘拐事件だと見られている。
博創不動産は宮本グループとの対決契約に敗れたことで経営破綻し、高原社長は恨みを募らせていた。そして宮本景太の妹・宮本茜に目をつけ、宮本景太から失ったものを取り戻そうと企てたのだ。。
ほどなくして、ボディーガードが病室の扉を開け、タブレットを宮本景太へ差し出した。
事件現場の防犯カメラ映像。
一連の流れが、すべて映っている。
橘結衣が一八〇センチはある男を蹴り飛ばした瞬間、宮本景太の眉がわずかに上がった。
「橘さんの身のこなし……」
一拍置き、薄い唇が言葉を落とす。
「ただ者ではないな」
「え、ええと……」橘結衣は鼻先を指で擦った。「大したことじゃないです。前に山の上に住んでて、近くのお寺に有名な武僧がいたんです」
深い視線を受け、橘結衣は恐る恐る一瞬だけ目を合わせ、すぐに逸らす。
「師匠で……ちょっとだけ、かじりました」
宮本景太は小さく頷き、タブレットを江川陸斗に返した。
「橘さん。君が今回の件に関与していないことは確認できた」
橘結衣はようやく息をつく。
立ち上がりながら言った。
「じゃあ、帰っていいですか?」
宮本景太がまっすぐ見据えてくる。眉間がほんのわずかに寄った。
「そんなに急ぐのか」
橘結衣「?」
急ぐ……?
確かに一秒でも早くこの冷気の塊みたいな空間から逃げたい。でも、そこまで露骨に出した覚えはない。
橘結衣はおそるおそる座り直した。
「……まだ、何か?」
宮本景太は何も言わない。ただ、鋭い眼差しが橘結衣を貫く。
空気がひゅっと冷える。橘結衣の腕に鳥肌が立った。
何か、まずいこと言った……?
「君は茜の命の恩人だ」宮本景太が口を開く。声音は氷みたいに冷たい。「礼を言うのが筋だろう」
口調だけ聞いたら、礼ではなく脅しにしか聞こえない。
でも橘結衣は知っている。宮本景太はこういう人だ。前の人生でも、会うたびにこの陰のある表情だった。
「宮本社長、わざわざお気遣いなく。たまたま居合わせただけですし、見て見ぬふりはできませんでした」
完璧な受け答えのはず——なのに、宮本景太の顔色がさらに沈む。
橘結衣「?」
また何か地雷踏んだ……?
宮本景太は橘結衣を見つめたまま、低く言った。
「俺と結婚しろ」
橘結衣「???」
目を、これ以上ないほど見開いた。
いま、何て?
結婚……しろ?
幻聴みたいだった。
横の江川陸斗も固まっている。全身が石になったみたいに。
「……」
社長、今日は何をどう間違えたんですか、という顔だ。
「えっと、宮本社長……その……え……私……」橘結衣は完全に混乱した。「たぶん聞き間違いで、いま何て……」
「今言った通りだ。俺と結婚しろ」
橘結衣「……」
聞き間違いじゃない。
宮本景太が、本気で言ってる。
橘結衣は感電したみたいに立ち上がった。
「だ、だって、私たち今日が初対面ですよね?」
前の人生でも、死ぬ直前の夜に、電話口で似たようなことを言われた記憶がある。でも今回はそれ以上に唐突だ。
何がしたいの、この人。
「どうする」宮本景太が問う。「嫁ぐ気はあるか」
ない!
橘結衣は心の中で叫んだ。
声に出したら終わるので、心の中だけで。
少し考えてから、言葉を選ぶ。
「宮本さんは、とても素敵な方です」
その瞬間、宮本景太の唇がきつく結ばれ、表情がさらに硬くなる。
「次は、いい人ですねと言って終わらせるつもりか」
橘結衣(なんで分かるんですか)
もちろん言えない。
宮本景太を拒絶して、この男の機嫌を損ねない保証は? 妹を助けた恩だって、平気で踏みにじりそうな圧がある。
橘結衣が頭を抱えかけた、そのとき。
ぱっと閃いた。
勢いよく顔を上げ、目を輝かせて宮本景太を見る。
「違います、宮本さん。私が言いたいのは……宮本さん、まさに私の理想の彼氏です!」
宮本景太がわずかに首を傾げた。
「……ほう」
橘結衣は息もつかずに続ける。
「初めてお会いした瞬間、息をのむほど素敵で、心臓が勝手に速くなって……これが一目惚れなんだって。その一秒で、子どもの名前まで考えました」
「だから『結婚しろ』って言われたとき、呼吸が止まりました。こんな幸運が自分に降ってくるなんて信じられなくて……前世でどれだけ徳を積んだんだろうって!」
「宮本さん、私、すごくすごく嫁ぎたいです。でも……私、未成年なんです。法律上、今は婚姻できなくて……本当に残念なんですが、今すぐは無理で……」
宮本景太が即答した。
「問題ない。三年待つ」
「三年後に籍を入れる」
橘結衣は固まった。
整いすぎてむしろ凶器みたいなその顔から、冷静な黒い瞳の奥に、ほんの一瞬だけ——執着にも似た柔らかさが覗いた気がした。
……見間違い。絶対。
橘結衣は目をこすり、喜んでいる風の笑みを無理やり作る。
「うん! じゃあ……三年。三年後に、籍、入れましょう」
「その日が待ちきれないです!」わざとらしく付け足す。
三年後なんて、どうせ状況は変わってる。宮本景太だって忘れてるはず——。
忘れてなかったら、そのときまた誤魔化せばいい。
「それで、宮本さん。話もまとまりましたし……私、帰ってもいいですか?」
宮本茜はまだ目を覚ましそうにないが、医者は問題ないと言っていた。橘結衣も、もうここに用はない。
宮本景太が小さく頷く。
「構わない」
橘結衣は間髪入れず病室を出た。逃げるみたいに、早足で。
宮本景太は長い間、その背中を見送っていた。
完全に視界から消えた瞬間、瞳の底の暗さがほどけ、隠しようのない優しさと甘さに変わる。
「嘘つきちゃん」
